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哀しみに呆けていられるほど哀しているときに住んだ家

恋人と別れ、仕事を辞め、おもむろに車を走らせて遠くにいった。 目的は定めずに、ただ車を走らせた。 着いたのは、割と北の日本。そこにたまたま住んでいる知人がいた。 住まわせてもらうことにした。 そこで、私は3ヶ月ほど過ごした。特に何をするでもなく、その住まわせてもらう家のことをこなしながら呆けていた。 あんなにも呆けていられたのは後にも先にもあのときだけで、その時には分からなかったが、あれは贅沢な時間だった。 なぜ、あんなにも呆けていられたかというと、私は悲しんでいたのだと思う。 その家に住まわせてもらう前に別れた恋人を哀していたのだと思う。 今から考えれば、あれは未熟な情熱であった。だが、あの家に住まわせてもらっている頃の私にとって、あれは大きなことだった。 あらゆる諸々を放棄し、ただ哀しみに身を心を浸すことができるほど大きなことだった。私がやっていたのは、染みついた義務感と道徳心がやらせる家主への奉公、それのみで、あとはひたすら自分を慰めるだけだった。 それができるほど哀しんでいられたというのが贅沢で、最近の私に、あのように呆けろと言っても、それは難しいだろう。 今の私は、生活の維持に必要な諸々を意識しないではいられない。それくらいには健康である。 知らない街で過ごした3ヶ月が私に与えたもの、それを考えることが必要なのだが、今の私には難しい。 また、十分な喪失感や哀しみがあるときに、することができるかもしれない。