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自堕落な生活から抜け出せる唯一の時間は風呂に入っているとき

家で働き始めて1年が経ちましたが、少しずつ堕落している自覚があります。在宅で仕事をする場合に最も難しいのは、自分を律することでしょう。それが苦手だった私は、やはりありがちな自堕落の中に浸かっています。そもそも自己管理が苦手なくせに、なぜ在宅で仕事を始めたのか・・・。失敗は予想されていました。 私が今の生活スタイルを選んだのは、自主的にというよりは、仕方がなくというものでした。特別なスキルや、実績を持たない私は少しずつ端に追いやられ、在宅で仕事をするようになりました。これは有難くもあり、また難しくもあります。 仕事を前向きに捉え、精力的にこなせばお金は多く稼げるでしょう。可能性は開けています。ただ前述のように自分を律することが苦手な私には、在宅で精力的に働くことは難しいです。 ただ、あまりにも最近の私の生活は酷く、立て直さざるをえない状態にあります。朝起きればインターネット経由で動画を視聴し、頭の中は自主的な活動が存在しません。私は年齢的に大人ですが、まるで現代の子等のように動画中毒になり、脳が溶けそうなのです。 1番問題だと感じるのは、無音を嫌うことです。部屋で動画を流しっぱなしにし、トイレに行く際にもスマートフォンを手にしてしまいます。 広告ビジネスのシステムにより、お金を払わない私にも無料のコンテンツが支給されています。経済的な繋がりさえ持たないまま、コンテンツの視聴データとして、完全に数字の一部として世界に囚われています。 私の身体と自主性は確かにここにあるのですが、ほとんど誰にも視認されないため、私が存在することは私にさえ現実味がありません。 唯一と言っていいほど、私が私を取り戻すときは風呂に入っているときです。さすがに風呂にスマートフォンは持ち込まないので、身体を洗ったり、湯を汲みながすことに集中しているときに、やっと私の頭は晴々とします。

哀しみに呆けていられるほど哀しているときに住んだ家

恋人と別れ、仕事を辞め、おもむろに車を走らせて遠くにいった。 目的は定めずに、ただ車を走らせた。 着いたのは、割と北の日本。そこにたまたま住んでいる知人がいた。 住まわせてもらうことにした。 そこで、私は3ヶ月ほど過ごした。特に何をするでもなく、その住まわせてもらう家のことをこなしながら呆けていた。 あんなにも呆けていられたのは後にも先にもあのときだけで、その時には分からなかったが、あれは贅沢な時間だった。 なぜ、あんなにも呆けていられたかというと、私は悲しんでいたのだと思う。 その家に住まわせてもらう前に別れた恋人を哀していたのだと思う。 今から考えれば、あれは未熟な情熱であった。だが、あの家に住まわせてもらっている頃の私にとって、あれは大きなことだった。 あらゆる諸々を放棄し、ただ哀しみに身を心を浸すことができるほど大きなことだった。私がやっていたのは、染みついた義務感と道徳心がやらせる家主への奉公、それのみで、あとはひたすら自分を慰めるだけだった。 それができるほど哀しんでいられたというのが贅沢で、最近の私に、あのように呆けろと言っても、それは難しいだろう。 今の私は、生活の維持に必要な諸々を意識しないではいられない。それくらいには健康である。 知らない街で過ごした3ヶ月が私に与えたもの、それを考えることが必要なのだが、今の私には難しい。 また、十分な喪失感や哀しみがあるときに、することができるかもしれない。

すっと消えてしまった人

急に帰ってこなくなる人がいる。こちらが、心の準備などする暇もなく、すっと消えてしまう人がいる。男の人だったり、女の人だったりする。親だったり、恋人だったりする。 悲しいと思う暇さえなく唐突に現れる現実に、対処しなければならなくなる。 私の人生にも急に帰ってこなくなった人がいる。すっと消えてしまった。 最後に何を話しただとか、どんな顔をしていただとか、記憶は曖昧で、その分、柔軟に時々に応じて立ち現れる印象は、捉えどころがない。 常に美しく、ふと心の隙間に入ってきて、私を過去に誘う。 過ごした街の景色は鮮やかで、それはとても事実とはかけ離れているような感じがするものだから、夢の中にいたような気になる。 そうした編集された記憶は、真実により近いのかもしれないし、また確かに、私の心を温めてくれている。 すっと消えてしまった人は、たまに私を訪れ、嘘の事実と予感を置いていく。 それは確かに私が拵えた幻でしかないのだが、実際の私が、幻に動かされていることも確かである。 儚い思いは予感になり、私の欲動の糧になる。突き動かされた私は動物になり、街を行き、人に出会い、誰かにとっての幻になる。 私が綺麗な幻として、誰かの心に機能することを期待したいが、果たしてどうだろうか。 私は、優秀な幻に、予感の源泉になれているのだろうか。 すっと消えてしまった人は、私に誤った趣向を授けてしまったのかもしれない。 だが、失われた季節を思い、儚さを追い、故の予感に導かれる愚かな者は、愛を弄ぶのである。 急に帰ってこなくなった人を、私は憎んでいない。 おそらく、事実よりも虚飾にまみれ、私の中に反応を起こしてくれる、彼ら・彼女らを、私は愛でている。

平凡な男が非凡に憧れ平凡に不幸を招くさいの始まり

平凡な人間同士が交わると平凡な間違いが起こります。私は非凡に憧れるような平凡な男の子でした。しかし、自らの平凡さを浮き彫りにする非凡さに憎さをつのらせる平凡さは持っておりませんでした。私は、平凡に非凡さに憧れ、自分とは違う平凡さに憧れ自身を育てるという最重要課題に取りかかれずにいたのです。17歳の頃のことです。 私は、出会いました。ありがちな非凡さをたずさえる平凡な女に出会いました。そこから、私の失敗の芽は育ち始めました。よくなかったのが、その女がとびきり美しかったことです。誰にでも訪れるようなできごとかもしれませんが、私の非凡さに対する自己防衛力の弱さが事を大げさにしたのです。私は、その非凡な美しさを持つ平凡な非凡さを趣向する女のことを長らく愛したのです。平凡な不幸が始まりました。 その女は、非凡さを指向する平凡さを持ち合わせながらも、非凡な純粋を発揮し、私の性愛に基づく求愛を拒否しつづけたのです。しかし、平凡にも5年ほど私は、その女に心をとらわれていました。 もちろん、平凡な私はその女を心では求めながらも身体の欲望を他で処理していました。私は他の女と2年ほど一緒に住まうという愚行を犯すほどに平凡だったのです。

適切に始めるには全体を知る必要があるゆえ、まず始めよということ

まず、大前提として孤独を選んだのは私自身です。私には欲望があり、その欲望を満たすためには孤独が必要だと考えたのです。さまざまなタイミングで人付き合いを省いてきました。そして少しずつ私を交友の輪の中に取り込もうとする人々が消えていったのです。今では晴れて孤独の身です。そうです、私は自ら孤独を求め、今まさに孤独の最中にいるのです。 しかし、人の欲望の有り様というのは時の流れとともに変化するようです。私の心に滾っていた情熱は勢いを減らし、欲望は崇高な目的よりも、生活の実感に向けられるようになりました。部屋にこもることが大切なことだとは分かっているのですが、ついフラフラと家の外へ出てしまいます。太陽の陽射しが無責任な期待を生み、私の体は浅はかな予感に導かれるように外界へ歩を進めるのです。 今日も外は良い天気ですが、今私はぐっとこらえてキーボードを叩いています。このような文章を書き連ねたところで何がどう変わるわけでもありません。これもある意味で逃げているということになるかもしれません。ただ、こうして文字を打つということを日課にして日々記録を付けていくことで何かが起きるのではないかと感じています。量を積み重ねることで何かしらの質を備えることになるかもしれません。 未熟な物書きの私は、なんのゴールもフレームも設定せずに書き始めます。そして、気まぐれに書かれた文字の羅列を眺めながら次に書かれるべき文章を探すのです。今このサイトには少ない文字数しか存在しません。ここからどのようにも展開することができます。それが、私にとっては少し居心地が悪くもあります。文章は書き進むにつれ、その行き先を限定していきます。それまでに書いたことが前提として機能するからです。言い換えれば書くほどに進むべき方向が見えてくるということかもしれません。とにかくまずは、文章を書き続けてみようと思います。植物に水を与えるように、ごく当たり前の日課として、このような駄文を積み重ねていきます。 小説の始まりは全体の中でこそ効果的に働くのです。あるいは、全てが見えた後でなければ適切に始めることができないと言いましょうか。全体を知るたために積み重ねることに集中したいと思います。まだ、私は何も語っていません。私の情熱と欲望と孤独について語るべき舞台を自ら構築する必要がありそうです。

書き出しとして。

なんとも目的を持たずに暮らしてきました。気づけば、なし崩し的に、ここにたどり着きました。 「ここ」とは私の部屋のことです。なにもない部屋です。なにもない部屋で、なにもせずに暮らしております。なにもしないと言っても生活はしております。食事をし、風呂に入り、眠ります。ほとんどそれだけの生活でございます。 金はどうしているかというと、これは小銭をインターネットで稼いでおります。誰にでも書けるような文章を書き、それほど高くない報酬を頂き、美味しくも不味くもない飯を食っております。 たまに、自分のくだらない暮らしが嫌になることもありますが、なんとか生き延びているといったところです。 ほとんど誰にも会いませんし、孤独といってよいかもしれません。無用なことわりかもしれませんが、私は特別に孤独が好きな人間ではありません。人と関わりあうことも嫌いではありません。もし、実際に私と会っていただければ、楽しい人間だと思っていただける可能性もゼロではないでしょう。特別明るいタイプの人間ではありませんが、ごく普通の成人男性です。 そんな私が、なぜこのような孤独な生活をしているかというと、困ったもので、私にも理由が分からないのです。まったく見当がつかないかと問われれば、そんなこともないのですが、確実にこれが原因だろうと言えるほどのコトはないのです。 いくつかの要因が複雑に絡まっているのでしょう。あるいは、私が勝手にそう思い込んでいるだけで、実は、問題は、シンプルで、容易なものである可能性も否定できません。どこかの誰かに、そっと耳打ちされて片付くような簡易な問題なのかもしれません。 いずれにせよ、私は考えたいと思いました。そのためには、ある程度正直に語れ、それでいて、客観的に理解できる表現で、記録することが必要だと思いました。 控え目に言って、私は途方に暮れています。 私は私を発見するために、今後、テキストを積み上げていきますが、それはweb上に公開されます。誰かがこの私の独白めいたテキストに出会い、なんらかの癒しになることもあるかもしれません。 私としては、その可能性だけを励みに、自らの過去をテキストとして表現していきたいと思っています。 ところで、今、また、絶望が襲ってきたので、これ以上書くことを断念します。